吉住流の代々家元

長唄吉住流は、江戸中期に初代・吉住小三郎が興した唄方の流派です。以来およそ三百年、小三郎の名は当代の七代目まで受け継がれてきました。

当代

七代目 吉住小三郎

2008年(平成20年)、六代目の長男・吉住小三治郎が七代目を襲名し、家元を継承しました。

長唄研精会 主宰
長唄吉住会 家元
一般社団法人 長唄協会 会長
NPO法人「三味線音楽普及の会」副理事長

歴代の家元

初代 吉住小三郎

1698年(元禄11年)〜1753年(宝暦3年)/55歳

出自ははっきりしませんが、摂津・住吉神社の神官の家に生まれ、初めは住吉姓を名乗っていたと伝えられます。神社の名で唄うのは畏れ多いと、住吉をひっくり返して「吉住」に改めたのが流儀の名の始まりです。

宝暦の初め、初代中村富十郎が踊った「京鹿子娘道成寺」でタテ唄を務め、大評判を取りました。義理堅い人柄で知られ、東海道の旅の途中で財布を掏られて困っていたところを助けてくれた島田宿(静岡県島田市)の恩を忘れず、以後、島田の「帯祭り」では必ず屋台で長唄を唄ったといいます。この習わしは今も吉住代々によって受け継がれています。


二代目 吉住小三郎

1799年(寛政11年)〜1854年(安政元年)/55歳

初め二代目芳村伊十郎に入門し、芳村五郎治、吉住小八を経て三代目芳村伊十郎を襲名。のちに伊十郎の名を返上し、一時期は花垣五郎三郎を名乗ったのち、1846年(弘化3年)に二代目吉住小三郎となりました。二代目富士田音蔵、三代目岡安喜三郎と並び、天保期(1830〜43年)を代表する三名人の一人と称されます。

中村座で瀬川菊之丞と中村芝翫が踊った「角兵衛」で新機軸を試みて大当たりを取り、また「勧進帳」で岡安喜代八と両タテを務めたことが、〝タテわかれ〟という形式の始まりとなりました。

島田の帯祭りへ向かう途中、箱根の関所で役人に呼び止められ、「唄うたいとは何ぞや」と問われて一曲唄ってみせたところ、役人が喜んでもう一曲を所望。唄い終えたあと「初めの一番は身分の証明、後の一番はご所望ですので」と代金を求めた、という逸話が残っています。


三代目 吉住小三郎

1832年(天保3年)〜1889年(明治22年)/57歳

父は井伊大老の裃を仕立てる職人でしたが、二代目の内弟子となって吉住小太郎を名乗り、のちに二代目の養女こうと結婚。二代目の没後、十一代目杵屋六左衛門(後の根岸の勘五郎)の取り立てで三代目を継ぎました。

若い頃は芸質に恵まれなかったといいます。しかし血の滲むような稽古を重ねた末、腹の底から響く〝呂〟の声を手に入れ、ついに一流を極めました。晩年まで後進の指導にあたり、その芸は次の四代目へと受け継がれます。


四代目 吉住小三郎(後の吉住慈恭)

1876年(明治9年)〜1972年(昭和47年)/97歳

幼少より三代目に引き取られて育ち、1890年(明治23年)、三代目の死去にともない14歳で四代目吉住小三郎を襲名しました。翌年から歌舞伎座に出勤しますが、三年後、勢力争いの巻き添えを受けるなど思うところあって退座します。

1902年(明治35年)、杵屋六四郎とともに長唄研精会を創設。芝居や舞踊から独立した〝家庭音楽としての長唄〟を目指して演奏会形式を採り、古典曲だけでなく、二人の合作や単独作の新曲を次々に発表しました。現代長唄の礎を築いた人物であり、東京音楽学校長唄科の教授として後進の育成にも尽くしています。

1948年 芸術院会員
1956年 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定
1957年 文化勲章受章(没後従三位)
1963年 家元を長男に譲り、吉住慈恭を名乗る


五代目 吉住小三郎

1908年(明治41年)〜1983年(昭和58年)/75歳
四代目小三郎の長男

1924年(大正13年)、二代目小太郎の名で長唄研精会にデビュー。以後、父を補佐して研精会と吉住会の運営に力を尽くします。1947年(昭和22年)の第400回研精会を機に、四代目稀音家六四郎とともに研精会を継承・主宰しました。1963年(昭和38年)、五代目吉住小三郎を襲名。

渋い芸風は吉住の唄の本流として専門家筋の高い評価を得ました。作曲を多数手がけ、作詞にも才を発揮しています。

1973年 紫綬褒章受章
1979年 勲四等旭日小綬章受章


六代目 吉住小三郎

1931年(昭和6年)〜2006年(平成18年)/75歳
五代目小三郎の長男

1955年(昭和30年)、東京藝術大学邦楽科を卒業後、小三治郎の名で長唄研精会にデビュー。1983年(昭和58年)、五代目の死去により六代目吉住小三郎を襲名しました。

幼少より人間国宝の祖父・慈恭の薫陶を直接受け、伝統の長唄を受け継ぐ一方、邦楽オペレッタなどの分野にも進出。洋楽への造詣も深く、リズムと旋律を重んじた、現代の耳に馴染む長唄の創作にも意欲的に取り組み、従来にない形式の曲を数多く生み出しました。学生時代に学んだ指揮の経験を生かし、数百人規模の合奏の指揮にも手腕を示しています。

自ら中心となって立ち上げたNPO法人「三味線音楽普及の会」の理事長として、児童・生徒への実技指導や出張演奏にも力を注ぎました。

社団法人 長唄協会 副会長
NPO法人「三味線音楽普及の会」初代理事長