吉住会と研精会

長唄 研精会


江戸期を通じて、「町内に一人は師匠が居る」という程盛んだった長唄。 しかし、明治維新の後、開国と共に流れ込む西欧文化によって、日本の古典音楽は大きな打撃を受けました そんな中、四代目吉住小三郎(後の吉住慈恭)は盟友の杵屋六四郎(後の稀音家浄観)と共に、当時の坪内逍遥、中内蝶治をはじめとする文人達から「邦楽全般に新しい時代に沿ったものを」というアドバイスを受けて、歌舞伎の伴奏音楽の一つであった長唄を舞踊から切り離した「純粋な邦楽のみの演奏会」として、明治35年(1904年)8月19日に「長唄研精会」を開くに至りました。 それは、ビジュアルの要素を排した唄と三味線だけでストーリーや音楽性を伝える試みであり、結果 大成功に至りました。さらに坪内逍遥などその頃の著名な文人らに作詞を依頼するなどして新曲を次々に発表。これが政界や財界の人々から支持され、やがて一般家庭にまで浸透する当時の大流行とまでなりました。 「研精会」は、代々の吉住・稀音家の両家元らの下で、現在まで六〇〇回以上開催され、今では百年を越える「最も歴史の古い長唄の演奏会」でございます。

 


 

長唄 吉住会


大正期に四代目吉住小三郎は、長唄研精会とは別に、吉住家元門下男女名取による年に二回の演奏会「長唄吉住会」を立ち上げました。 基本的には男性主体で稀音家と合同で行う研精会とは異なり、吉住流の男女名取一同による演奏会として発足したその会は、四代目吉住小三郎の目指した「家庭音楽として隆盛」が叶えられていった結果、今では吉住流の女性が主体の演奏会に変化を遂げました。
大正8年(1919年)6月19日に第一回が開かれた長唄吉住会は、現在では二〇〇回を越えて開催され、平成31年(2019年)になって一〇〇周年を迎えることとなりました。